1880年に保守派のラファエル・ヌニェスが自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。
1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、
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の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛りこんで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。
レティシアを巡ってのペルーとの戦争に備えるコロンビア軍(1932年)1894年にヌニェスが死ぬと再び緊張が高まった。1899年にはラファエル・ウリベ・ウリベ将軍の指導する自由党急進派による蜂起が起こり、1902年まで続く「千日戦争」勃発し、およそ10万人の犠牲者を出した。かねてからパナマを欲していたアメリカ合衆国のパナマ運河地帯永久租借案を、コロンビア上院が拒否すると、アメリカはパナマ地峡の独立派を援助し、1903年に地峡地帯がパナマ共和国として独立した。
保守党のラファエル・レイェスが大統領に就任して独裁が強化され、保護貿易に基づいて国内工業の育成が図られ、保守党政権によって継承された。1921年にパナマ問題が解決すると米国からの膨大な投資が流れ込み、対米従属が進んでいった。1910年代からアンティオキア地方の開発と発展が進み、コーヒーの最大産地となったアンティオキアの中心地のメデジンは、ボゴタを抜いてコロンビアの成長の原動力となった。
1930年にエンリケ・エラヤ・エレーラが労働者の支持を得て選挙に勝利し、自由党政権が復活すると、エレーラは1932年9月のコロンビア・ペルー戦争に勝利し、南部アマゾン国境のレティシアの領有権を確保した。これ以後1946年まで
外為
党政権が続いた。
1934年、自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホが大統領に就任し、部分的な土地改革などが行われた。プマレホは1942年に再選されるが、政策に失敗して1945年辞任した。プマレホの政治は農民や労働者の利益に適ったものだったが、それでも寡頭支配体制が崩れることはなかった。自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンは1928年にユナイテッド・フルーツ社のバナナ労働者虐殺事件を批判したことから、カリスマ的な魅力を発揮し、ガイタン
外為
を掲げてそれまで寡頭支配体制の枠外に置かれていた農民、労働者、学生から圧倒的な支持を受けた。
グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍
現在のボゴタ。標高2600mに800万人が居住する1946年以降の十数年間はラ・ビオレンシア(暴力)の時代と謂われ、争いが頂点に達した。
1946年に保守党政権が誕生すると、徐々に自由党派に対するテロを繰り広げ、1948年にボゴタでのOAS会議中に、自由党党首のガイタンが当選確実といわれた選挙直前に暗殺されると、自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、再びコロンビアは暴力の時代を迎え、1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。
1950年に保守党の超保守派ラウレアーノ・ゴメス大統領は事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。ゴメスは反共を掲げ共産党系と自由党系のゲリラを
ワラント
し、反共政策の下で朝鮮戦争にラテンアメリカ諸国で唯一国連軍に軍隊を派遣した。
地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請し、1953年6月14日、軍事クーデターにより朝鮮戦争の英雄グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。
ロハスはポプリスモ的な政策で民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年ロハスが人民弾圧をおこなった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起し(ビジャリカ戦争)、1956年ロハスに敬意を示さなかったという
不動産投資
で多数の市民が虐殺される「牛の首輪」事件の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まった。ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンのフアン・ペロンのような独自の支持基盤を労働者に持とうとしたため、支配階級も反ロハス感情を抱いた。反ロハス勢力が結集し、1957年にロハスは辞任に追いやられた。
1958年支配層はロハス政権の教訓として、自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の発生を恐れ、両党による「国民戦線」体制が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であり、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。
キューバ革命の影響を受けて、1961年に進歩のための同盟が発足すると、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らずゲリラ活動は活発化し、1966年にはコロンビア革命軍 (FARC) が発足した。1968年にメデジン公会議で解放の神学が誕生した。1970年の選挙でANAPO党から出馬した、朝鮮戦争の英雄ロハスが不正選挙で負けると、学生を中心とした左翼ゲリラ4月19日運動 (M-19) が生まれた。
1974年「国民戦線」体制終了。通常選挙が執り行われる。1978年に就任した自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領は、戒厳令を布告し、多くの活動家が秘密警察による拉致や拷問を受け、その多くが失踪した。1982年に就任した保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、1985年にはFARCが合法政党である愛国同盟 (UP)を創設したが、議員や関係者が次々に暗殺され、1994年には政党資格を喪失した。また85年には左翼ゲリラM-19によるコロンビア最高裁占拠事件、ネバド・デル・ルイス火山の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。1986年に就任した自由党のビルヒリオ・バルコ大統領により、1989年メデジン・カルテルとの大規模ゲリラ戦闘「麻薬カルテル戦争」が勃発し、麻薬カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。
1990年、大統領に就任した自由党のセサル・ガビリア・トルヒージョは野党を含む挙国一致内閣を組閣し、1991年に1886年憲法が全面改正され、施行された。1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール・ピサノ大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが発覚し、「ナルコ・ゲート事件」に発展した。議会はサンペールを弾劾する構えを見せ、アメリカ政府もサンペールの入国ビザの発給を拒否するなど外交問題に発展した。1998年に就任した保守党のアンドレス・パストラーナ大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌1999年1月にはFARCとの和平対話を開始するも、2002年初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。同夏自由党系の新政党「まずコロンビアを」から就任したアルバロ・ウリベ大統領は治安回復を重点課題とし、2006年5月、ウリベは大統領に再選した。
現行の1991年憲法により、大統領制、二院制議会を骨子とした国家制度となっている。大統領の任期は4年で、連続一度まで再選可。議員定数は上院102人、下院166人。
コロンビアの政治における基本的な性格としては、現在まで続くボゴタソ以降の内戦においても、ロハス時代を除いて一貫して文民政権が維持された。コロンビアでこうした体制が成立しているのは自由党、保守党両党による歴史的な妥協が続き、軍やポプリスモ政治家が出る幕がなかったこと、仮にそういった政治家が現れそうになっても、寡頭支配層によってガイタンのように暗殺されるか、ロハス将軍のように追放されるか、選挙不正で勝利できないなどにより、結果的にそうした人物が政権を握ることを避けてきたからである。しかし、その代償は大きく、寡頭支配層に対する抵抗という目的を持った左翼ゲリラが跋扈し続ける主な原因である。
コロンビアを支える文民政権は腐敗も多く、清廉な議員、判事でも麻薬組織による買収工作や、コロンビア革命軍などの左翼ゲリラ、右翼民兵よる誘拐、暗殺が絶えない。麻薬組織は政権を握る気がないため、表立って政治を操るようなことはしていないが、それでもその影響力は非常に大きい。
政党としては1849年に結成された自由党と保守党が主要な政党であり、そこから別れ出た政党や、社会主義政党も幾つか存在する。保守党は独立時のボリーバル派(中央集権派)の流れを、自由党はサンタンデル派(連邦派)の流れを受け継いでいる。19世紀のイスパノ・アメリカ独立時はほぼ全ての国で自由党と保守党の対立・内戦が繰り返されたが、その後多くの国でこの自由党、保守党という枠組みがなし崩し的に崩れていったのに対し、この枠組みが独立戦争中から継続しているコロンビアの形態は珍しい。